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元暉 (隋)[げん き] 元暉(げん き、生没年不詳)は、西魏から隋にかけての官僚・政治家。字は叔平。本貫は河南郡洛陽県。元琛の孫。 == 経歴 == 尚書左僕射の元翌の子として生まれた。学問を好み書記を得意として、若くして長安城下に美名が聞こえた。宇文泰に礼遇され、宇文泰の諸子といつも同席して、友情を結んだ。弱冠にして、相府中兵参軍となり、まもなく武伯下大夫に転じた。突厥への使者に立ち、可汗に利害を説いて、通交を実現させた。まもなく儀同三司・賓部下大夫の位を受けた。保定初年、大冢宰宇文護に召されて長史となり、弁才を買われて崔睦とともに北斉への使者に立ち、和平交渉にあたった。振威中大夫に転じた。武帝が突厥から阿史那皇后を迎えるにあたって、元暉は使者をつとめた。開府儀同三司の位を加えられ、司憲大夫に転じた。北斉が平定されると、河北の安撫にあたり、義寧子に封ぜられた。 580年、楊堅が北周の政権を掌握すると、元暉は上開府の位を加えられ、爵位は公に進んだ。581年、隋が建国されると、都官尚書に任ぜられ、太僕卿を兼ねた。杜陽水を引いて三畤原を灌漑し、数千頃の農地を潤した。582年、太僕卿のまま左武候将軍に転じた。まもなく兵部尚書となり、運河の労役を監督した。事件に連座して免官された。しばらくして魏州刺史に任じられ、善政で知られた。在任すること数年、病のため職を去った。1年あまりして、長安で死去した。享年は60。諡は元といった。
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